【音もなく少女は】ボストン・テラン ★★☆

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 あくまで個人的趣味である。ボストン・テランという人はアメリカでは高名な作家のようだ。だから、高くは無い評価をしたのは、あくまで個人的好みの問題で、世の中の標準的評価とは大きく異なるのだと思う。訳がわるいのか、”文学的”で大仰な表現がかえってしらけさせる。いわれの無い暴力にさらされる女達の不屈の戦い、と言ったらいいのだろうか?もっと平易な表現で書いてくれた方がしっかり染みると思うのだが。しかし、最後の方はやはり涙を禁じ得なかったのではある。
 1950年代のブロンクス地区。オランダ、イタリア、スペイン、ドイツ、ユダヤ、プエルトリコ、ドミニカ、そして黒人。麻薬、窃盗、殺人。あらゆる犯罪が毎日当たり前に行われていたニューヨークきっての暴力街。貧困と偏見がうずまく人種の坩堝。
 イタリア移民で暴力的で犯罪に染まった夫との間にできた二人の娘は共に聾者として生まれた。信心深い母親クラリッサは全ては自分のせいと思うのだ。まもなく上の娘に死なれてしまったクラリッサは、下の娘イブだけには夫の反対を押し切ってでもキチンとした教育を受けさせたいと考える。
 そんな時、皮肉にも教会で、ナチの支配するドイツから逃れてきた女フランと知り合う。”皮肉にも”というのは、フランは神などつゆも信じていないが、たまたま老齢の隣人を補助してこの教会に連れてきたからだ。
 フランはドイツ人だが、障害者と子を成すことを禁じたナチの断種法の猛威から逃れる途上で、聾者である恋人を殺され、当時その子を身ごもっていた自らも乱暴なやり方で子宮を取り出され、命からがらアメリカのこのブロンクスに住む親戚を頼って脱出してきたのだ。
 そんな神を信じないフランと、信心深いクラリッサだが、同じ聾者との関わりという接点で友情を深め、やがてフランはイブに手話を教え、自分がかつて志した写真家の素質をイブに見いだし、写真の技術を伝授し、母クラリッサと変わらぬ愛を注ぐ。
 クラリッサは犯罪者で麻薬の売人、夫ロメインのDVから逃れ、イブを連れてフランの家に避難しているが、カトリックの離婚は罪という教義に反してでも、ロメインと離婚することを決意し、恐怖に怯えながらも夫に決然と伝えるべく、家族が住んでいた半地下のアパートに向かう。そして夫と対峙したクラリッサに待っていた運命は・・・
 一方どこに行くにもカメラを持ち歩くイブはやがて長じて、最愛の恋人チャーリーと出会うことになる。チャーリーは孤児だったが、黒人ではあるが篤志家の里親ドーア夫妻に引き取られ愛をもって育てられた。ドーア家にはチャーリーと似たり寄ったりの境遇の子供達が引き取られ暮らしていた。チャーリーの幼い義理の妹ミミも売人の父とジャンキーの母の元からドーア夫妻に引き取られてきたのだ。しかしミミの父、救いようのない犯罪者ボビーは刑期を終えて出所したところだ。そのボビーがミミの周辺を立ち回り、結果としてドーア家、そしてフランとイブが暮らす場所にも禍が降りかかってくる。
 女達は偏見と旧時代の価値観に凝り固まった男達による暴挙に敢然と立ち向かうのであった。数々の悲劇がある中で、女達の不屈の決意が涙を誘う。

 作者テランの提示する問題意識は、女権を認めない男達、人種間の憎悪、アメリカ社会に蔓延する麻薬だ。しかし、個人的にはそれ以上に実は、宗教というものが個人を束縛し、むしろ社会に害悪を振りまく様を語りたいのだと思う。これは(恐らく)テランの他の作品にも出現するテーマではなかろうかと予測している。(この後テランの作品を2作買ってあるのでいずれ読む予定だ。)

 ここからは、書評を離れて個人的意見表明だ。
 宗教というものは、長い間文化の伝播という役目を果たしてきたが、反面、為政者にとっては社会を統率し、人々を手なづける最強のツールであった。そして、今振り返って考えれば、宗教のせいで人々は、殺し合い憎み合いつづけ、どれほどいがみ合い、殺戮や戦争を起こしてきたことか。宗教こそが人々がお互いに認め合うという相互認容を阻んできた元凶であったと強く思う。そして殉教。これほどばかげたことはない。
 文明の開花する以前の社会ではそれなりの役割を果たしたと、一歩譲って評価するとしても、この現代社会においてはただのじゃまでしかないと思う。人々は宗教に頼らない人類共通の倫理を確立しなければならない。そしてそのためには、現在宗教で儲かっている輩達はこの社会から全員消滅すればいいのだと思う。誤解を避けるため言っておけば、もちろん彼らに”死ね”という事では無く、宗教に携わることを止めよ、という意味だ。

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